歴史のまち白石|白石城の変遷とロマン溢れる歴史スポット
白石の歴史のはじまり〜白石氏から伊達氏の統治へ〜
平安時代の後期に、刈田経元という人がいました。この男は、武将・源義家から土地(苅田地区)を与えられ、白石にやってきました。それ以後この土地は刈田氏が治めるようになり、6代目以降は「白石氏」と名を改めました。
白石氏は隣の土地を治めている伊達氏から養子を迎えたりと、古くから伊達氏との繋がりがあり、戦国時代には伊達氏の勢力下となります。しかし、1591年に豊臣秀吉が天下を統一すると秀吉によって白石は蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられ、伊達氏の統治から離れます。この時期、蒲生の下で白石城が本格的に築城されたと言われています。
白石城を奪い返した伊達政宗
戦国の武将の中でも名高い伊達政宗は、伊達氏の17代目当主です。秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成が勢力を争うようになりますが、政宗は早くから家康の味方につきます。その頃、会津を治めている上杉景勝が軍事力を強化していると聞きつけた家康は景勝と対立。蒲生氏郷の亡き後に白石城は上杉氏が城主となっていましたが、家康と景勝が戦う際に家康側の政宗は上杉氏から白石城を奪い返します。この「白石城の戦い」によって、9年ぶりに白石が伊達氏の領地となったのです。
伊達政宗から白石城を与えられた片倉小十郎
白石が伊達領となって間もなくの、1602年。それまで政宗の叔父の石川昭光が城主であった白石城は、政宗の家臣の片倉景綱(通称・片倉小十郎)が新たに城主に任命されます。小十郎は幼い頃より政宗の父・輝宗に見出され、政宗と深い絆を結んだ人物です。政宗の世話係になって以降は政宗と共に戦に参戦し、数々の伊達氏の危機を救いました。小十郎の軍師としての能力が買われ、豊臣秀吉から三春5万石の大名への誘いを受けたこともありますが、小十郎は政宗に生涯仕えるとして辞退しています。小十郎が城主となって以降、明治時代まで白石城は片倉氏の城として続きました。
江戸で繁栄した白石城は、明治になると解体される
白石城の戦い以降、白石は政宗が藩主となった仙台藩の一部となりました。江戸幕府を開いた家康は1人の大名の領土に城は1つだけとする「一国一城令」を発しましたが、白石城は例外として政宗の住む仙台城に加え存続しました。これは家康が白石城の城主である小十郎を、高く評価していたためとも言われています。それから明治維新までの間は片倉氏の下で城下町が栄えましたが、1868年に戊辰戦争で仙台藩が新政府軍に負け、白石城を明け渡すことになります。明治時代に入ると白石城は民間に売られた末に取り壊しとなり、1995年に復元されるまで城跡の状態でした。
戊辰戦争の本拠地としての白石
1867年に、徳川幕府から新政府へと政権が移行します。しかし、これに不満を持つ旧幕府軍が、新政府につく薩摩藩・長州藩・土佐藩の軍に京都で攻撃を仕掛け(鳥羽・伏見の戦い)、戊辰戦争が始まりました。会津藩の藩主である松平容保は徳川幕府の命で京都守護職についており、鳥羽・伏見の戦いにおいて会津藩が旧幕府軍の主力となりました。そのような背景から新政府軍は会津藩を危険視し、仙台藩主に会津藩を追討するように命じますが、仙台藩は応じません。そして、会津藩を救済するために仙台藩と米沢藩の藩主が呼びかけ、現在の東北地方である奥羽14藩が集結し会議を行った場所こそ、要衝の地にある白石城なのです。奥羽諸藩は結束して会津藩への許しを嘆願しますが受け入れられず、結局は白石を政策拠点として新政府軍と戦うこととなりました。
ロマンに触れる!白石の歴史スポット
白石は、戦国から江戸時代にかけて名高い名将たちが治めてきた街です。その名残は今も至るところに残っており、肌で歴史を感じることができます。ここからは、白石の歴史に因む3スポットをご紹介していきます。
【白石城】白石といえばまずここ!
1874年に取り壊された白石城は、120年の時を経て1995年に復元されました。全国的にも珍しい木造での復元作業により、白石城の全盛期である江戸の状態の三階櫓(3階建の天守閣)が忠実に再現されています。防火の機能がある白漆喰の外壁と、光が当たると銀色に照るいぶし瓦とのコントラストが美しく、一見の価値ありです。
天守閣の外側についている、バルコニーのようなものを「高欄・廻縁」と言います。 現在の白石城では誰でもこの高欄部分に出て、城下の見事な景色を一望することができます。白石城のすぐ側には「歴史探訪ミュージアム」があります。白石の歴史にまつわる展示を見たり、レストランで郷土料理を味わうなどして、白石城の見学とセットでお楽しみください。
白石城
連絡先:0224-24-3030
所在地:宮城県白石市西益岡町1-16(益岡公園内)
【武家屋敷】片倉家の家臣が住んだ貴重な古建築
白石城の北に10分ほど歩いたところ、川沿いに佇む武家屋敷は白石城の城主・片倉家の家臣であった小関家の屋敷でした。片倉家の4代当主に市子という女性が嫁いだ際に添人として小関家が白石に来て以来、小関家は片倉家中となりました。
屋敷は1730年に建てられており、1991年に小関家から白石市に寄贈されています。農民の住宅を素地として作られた茅葺き屋根の素朴な屋敷は、なんとも癒しの空間です。屋敷の中から風情ある庭園を眺めてしばしぼーっと過ごせば、心が洗われるような心地になるでしょう。
武家屋敷
連絡先:0224-24-3030
所在地:宮城県白石市西益岡町6-52
【片倉家御廟所】白石城の城主が祀られる墓所
片倉家御廟所(かたくらけごびょうしょ)は、初代当主である小十郎から10代宗景の代々の当主たちと、7代の奥方である昌子夫人の墓所です。9代影貞までの当主と昌子夫人の墓標には10体の阿弥陀如来の石像が建てられ、10代宗景の墓標のみが石柱となっています。
この御廟所を作ったのは3代景長で、白石城の見える福岡蔵本(白石城の西に位置する白石市内の土地)の愛宕山に自らの墓所を決め、別の場所にあった初代・2代の墓標もここに移してきたのです。御廟所は杉の森の中にあり、長い年月を経て苔むした石像や石碑は神聖さを放っています。
片倉家御廟所
連絡先:0224-22-1343
所在地:宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山